〜黄金の剣 解き放ちて(後編)〜



    従業員や他の客の目を避けて、薄暗い非常階段に忍び込む。一応掃除は行き届いているようだけれど、

   がらんとして何の飾りもない空間は、華やかな内装に彩られたホテルの一部とは思えない寂しさだった。どこか

   居心地の悪さを感じるのは、人に見られることを想定していない場所にいるせいだろうか。

    レストランは最上階にあったから、少しのぼっただけで屋上への扉に行きついてしまった。ノブに手をかけて

   みると、何の抵抗もなく回る。どんな手段を使ったのかはわからないが、確かに鍵は開いていた。

    彼女はこの向こうにいる。振り向いてマスターの目を見ると、無言でうなずき返してくれた。それならためらう

   こともない。私は軽く力をこめて一面灰色に塗られた鉄の扉を押し開け、冷え切った空気の中へ踏み出した。




    街中のために夜でも暗いとは言えず、けれどもたいていの照明よりは高みにあるために明るいとも言えない、

   黄昏のようにあやふやな陰がその場所を包んでいた。最近の建物は屋上を緑化しているところもあるが、

   このホテルはいたって殺風景で、空調設備が静かにうなりを上げている以外は目に付くものは何もない。

    そして彼女は、開けた空間の真ん中に堂々と立っていた。地上に比べればここは風が強く、体感温度はずっと

   低いというのに、彼女はまるで寒々しく見えない。挑戦者を待ち受ける闘技場の剣闘士の風格だ。

   「来たか。来てくれたか、アイリス。嬉しいぞ」

   喜びを隠し切れない様子で私を迎えた彼女は、扉を後ろ手に閉めたマスターへ不意に視線を向けて声をかけた。

   「そこの男! それ以上は近づくなよ。怪我をするぞ」

   「どうかその場所で見ていてください。危険です」

   遅ればせながらマスターに警告を済ませ、私が彼女へと歩み寄ったそのとき、風にちぎれた雲の隙間から

   月が顔をのぞかせた。月光を感知した私のセンサーが限界稼動を開始し、闇を透かして彼女の姿を捉える。

   今日ばかりは月傘も必要ない。

   「手にしているのは刀か? そんなものを持ってこの場に現れたからには、当然覚悟はできているのだろうな」

   期待にはやる彼女は今にも飛び掛ってきそうだ。私は目を凝らして彼女の動きを把握しようと努めた。コートの

   上からでもわかるほっそりとした体格をしているが、女の細腕という言葉はロボットの出力には当てはまらない。

   ましてどんな内臓武器を装備しているか、わかったものではない。

    そこまで観察したとき、彼女に関するもっと重要な情報が欠落していることに私は気づいた。

   「戦いを始める前に、ひとつ聞いておきたいことがあります」

   「言ってみろ。心残りのために全力が出せぬというのは困る」

   鷹揚にうなずく彼女をまっすぐに見据えて、私は言った。

   「では問いましょう。あなたの、名前は?」

   それまで好戦的にぎらつく表情を浮かべていた彼女は、私の問いを耳にして一瞬ポカンと立ち尽くし、それから

   はじけるように大声で笑い出した。

   「ははは、名前とはな! これはしたり。名乗りもせずに要求を告げるのは確かに無礼であろうよ」

   けれども私はとても笑う気分にはなれなかった。名前とは、自分以外の誰かに呼ばれて意味を持つものだ。

   指摘されるまで名乗る必要を感じなかったことが、彼女の孤独をあらわしているようで、私は思考に軽くノイズが

   走るのを覚えた。

   「改めて名乗ろう。私はイオソード。そう、呼ばれていた」

   それはきっと正式名称ではなく、企画段階でのコードネームだったのだろう。廃棄されたことを憤っていた彼女は、

   しかし開発者につけられたはずのその名を口にするときに、どこか誇らしげな様子を見せた。

    それにしても「ソード」とは剣のことだろうか? 思わず左手に携えたサムライソードを握り締めると、私の疑問を

   見て取ったのか、彼女は右手の指をそろえて手刀を形作った

   「私の剣は、ここにある」

   その右手を胸の前で構えたイオソードは、月光に金色の髪と金色の目をほのかにきらめかせながら高らかに

   宣言した。

   「アイリス、おまえを破壊する。そして私が廃棄されたのは単にめぐり合わせが悪かったからなのだと、

   決しておまえたちに劣るゆえではないと証明するのだ」

   「あなたの望むように、イオソード。しかし私は負けません」

   黒い鞘からサムライソードを抜き放つと、色気のない刃が鈍い光をたたえた。この刀は鑑賞目的の美術品でも

   匠が手を凝らした名品でもない。純然たる工業製品であり、だからこそその価値は使い手である私に依拠する。

   「では行くぞ」

   思いのほか静かに戦いの開始を告げたイオソードは、真正面からこちらに跳びかかり、手刀を打ち込んできた。

   トップクラスの陸上選手並みの素早さだが、動きは直線的で簡単に回避できそうだ。しかし彼女の能力が未知数で

   ある以上、私は慎重な行動を取ることにした。

    抜いた刀ではなく、逆手に握ったままの鞘でイオソードの一撃を防ごうとした寸前、彼女の右手が突然金色の

   光を帯びた。予想を超えた強い衝撃に鞘がもぎ取られそうになるが、機械の腕ならこちらも同じこと。何とか耐えて

   鞘を保持しきった。

    しかしそれで終わりではなかった。このまま力比べになるかと思われた矢先、乾いた音を立てて、炭素繊維

   強化プラスティックでできた鞘が真っ二つに折れてしまったのだ!

   「アイリス!」

   マスターが私の名を呼ぶ声が耳に届いたときには、イオソードの次なる攻撃が迫っていた。不幸中の幸い、

   半分の長さになって取り回しやすくなった鞘で、彼女の光る手をさばく。あの金色の輝きは、少なくとも軽く触れた

   だけで物体を破壊できるものではないらしい。受け止めるのではなく受け流すなら、鞘が再び折られることは

   なさそうだ。

    だがそれでイオソードが攻めるのを諦めるわけもなく、夜の闇に金の文字を書こうとするかのように右手を

   躍らせる。私はそのすべてを防ぎ続けたが、じりじりと後退せざるを得なかった。このままではいずれ屋上の端まで

   押し切られてしまうだろう。

   「どうした、防戦一方ではないか」

   嘲笑うイオソードの隙を突けと、私の中の戦術プログラムが示唆する。しかしロボットは、激しい運動中に

   しゃべったからといって、息を切らせるようなことはない。私のボディーガード機能はあくまで対人戦闘を

   想定していて、目下の状況には必ずしも役立つものではないらしい。

    プログラムに頼っていたのでは勝ち目がない。イオソードを組み伏せるには、私自身が彼女の力量を確かめ、

   打破しなければならないのだ。意を決して、私は彼女の手に噛み合わせるように鞘を打ちつけた。私が反応を

   変えたことで、休みなく腕を振り回していたイオソードも一瞬動きを止める。このわずかな間を利用して、私は

   彼女の秘密を看破しようとした。

    見れば、イオソードの右手は直接鞘に触れてはいない。そこから出る光そのものが圧力を持って、押しつぶそうと

   迫ってきているかのようだ。しかしそんなことはあり得ない。光とは別に、何らかの視認できない力が作用している

   はずだ。磁力か、それともフレミングの運動量を利用しているのか。どちらにしても、絶縁体の鞘が電磁場の影響を

   受けるはずはないが……。

    そのとき私は、彼女の放つ輝きにさらされている鞘の表面が、奇妙な光沢を帯びて微細な火花を散らしている

   ことに気づいた。イオソードは金属粒子を散布して、強制的に導体を作り出しているのだ!

    具体的なメカニズムはまだ不明だが、大まかな原理はわかった。先ほど推測したとおり、彼女の手が破壊力を

   十分に発揮するためには、短い間とはいえ対象に接触し続けなくてはならない。その機会を与えさえしなければ

   いいのだ。

    私は左手から力を抜いて、残る鞘の半分も弾き飛ばされるに任せた。急に抵抗を失ったことでイオソードが

   たたらを踏み、その体が大きく泳いだ。私はすかさず3歩退いて、右手に握ったままだったサムライソードを

   八相に構えた。

   「なぜ斬りかかってこない。全力を出せ。その剣はただの飾りか?」

   崩れかけた不自然な体勢のまま、イオソードが挑発してくる。しかし私は、自分からは動かずに答えた。

   「全力を出しましょう。けれども私の力、私の剣はすべて、護るためにあるのです」

   「護るだと? 労働するのがロボット、斬るのが剣。その役に立たぬものは無価値だ!」

   そう叫ぶやイオソードは身を低く伏せ、地を這う蛇のような俊敏さで私の懐にもぐりこみ、きらめく右手を

   突き上げてきた。間合いを詰めれば剣を振るうことができないと判断したのだろう。

    だが彼女に告げたように、私の技は相手を殺傷するためではなく、その威力を削いで制するためのものだ。

   接近戦はむしろ得意とするところだった。

    私はサムライソードを体に引き寄せると同時に、左手を柄から離して刀身の峰に沿え、イオソードの右手を

   受けた。そして彼女の力を利用し、自分の左手を支点としてテコの原理で剣を反転させ、跳ね上げた柄頭で

   彼女の顎を打った。

    人間なら確実に脳震盪を起こしているところだが、そもそも脳の無いロボットはそれほどダメージを受けない

   はずだ。しかし反撃を受けたことがよほど予想外だったのか、手から光を消したイオソードは二度三度と大きく

   飛びずさり、屋上を囲む柵まで後退した。

    私たちの攻防を固唾を呑んで見守っていたマスターが、大きく息をつく音が聞こえてきた。つられるように私も、

   白く染まった息を吐いて体内の熱を放出する。

   「なるほど、これが護るための剣か」

   顎をさすりながらイオソードが笑った。今のやり取りが楽しくて仕方が無いようだった。

   「おまえの本気を疑った非礼をわびよう。次は私も全力で当たる」

   そう言うと彼女は腕を掲げ、両の手から金色の光を放った。

   「素晴らしいな、制限無しに力を振るうこの感覚は。だが、それもこれで仕舞いだ!」

   イオソードが軽く跳び上がると、ブーツが弾け飛んで両足からも光があふれ出した。彼女はその足で背後の柵を

   蹴り、鉄が震える音を轟かせて一直線に私へ向かってきた。

    もはや跳躍というより飛行に近い勢いでイオソードが迫る。これまで以上の速度での突撃は、今から反応しても

   受け止めることもかわすこともできない――けれども月光の下、LPSを作動させた私は、すでにこの攻撃に

   備えていた。

    私は懐から取り出した3枚の呪符をばら撒いた。宙を飛ぶイオソードはほんの一瞬緊張したが、それが墨字の

   書かれた紙切れに過ぎないと見て取るや、かまわずに突っ込んできた。

    彼女が私の元に到達する直前、呪符が意思を持つ生き物のように彼女の両足と左手に張り付いた。墨字に

   偽装された回路が電磁場の生成を阻害し、金色の光が掻き消える。過負荷に耐えかねて呪符はたちまち

   燃え尽きたが、イオソードの動揺を誘うにはそれで十分だった。

    混乱をきたした彼女は、私を吹き飛ばすよりもわずかに早く床に着地してしまった。そのままつんのめりそうに

   なるところを、右足を大きく踏み出してこらえた彼女は、半ば倒れこみながら唯一光り続ける右手を振り下ろす。

    私は右手で横一文字にサムライソードを突き出して彼女の執念の一撃を受け、空いた左手で踏み込んできた

   彼女の右足をすくい上げた。体を支えることができなくなった彼女が、もんどりうって背中をしたたかに

   コンクリートの床に打ちつける。すかさず私は剣を逆手に構えなおし、彼女めがけて突き下ろした。

    屋上に沈黙が訪れた。私もマスターも、しばらく無言でホテルの空調の作動音を聞いていた。

   「とどめを刺せ」

    私の体の下で、イオソードが感情のこもらない声でつぶやいた。サムライソードの切っ先は彼女をそれ、

   床に食い込んでいた。

   「ためらうな。私は人間ではない。壊れた機械を処分するのに、遠慮は要らぬ」

   なんと答えていいものか私は判断しかねたが、ある言葉が勝手に口をついて出た。

   「人間とか機械とか、そんな区別をつけて態度を変えられません」

   「甘いことだ。それでおまえの大切なものを護りきれるのか?」

   イオソードはせせら笑ったが、

   「では、どうしてその手を止めたのです」

   と反論すると、口をつぐんでしまった。

    私の胸には彼女の右手の指先が触れていた。サムライソードの狙いを無理にはずしたためにできた隙を

   つかれたのだ。しかしその手はもう光を帯びていない。特別な力などない、ただの指だった。

    イオソードはゆっくりと手を下ろし、目を閉じて言った。

   「私の負けだ」





    戦いの一部始終を見届けたマスターが、私たちに近づいてきた。

   「大丈夫か、アイリス?」

   私は立ち上がって、サムライソードを床から引き抜いて一振りした。

   「全機能正常。各部異状無し。問題ありません、マスター」

   私の無事を確かめたマスターは、続いて片ひざをつき、仰向けに倒れたままのイオソードに手を差し伸べた。

   「何のまねだ」

   彼女にぎろりとにらまれたマスターは、困った表情を浮かべ、取り繕うように言った。

   「ええと、結構大きな音を立ててたから、誰か来るかもしれない。早く撤収しよう」

    私は辺りを見回し、転がっていたサムライソードの折れた鞘を見つけて拾い上げた。これは最初に砕かれた

   下半分だ。

   「残りの半分はどこでしょう」

   私の疑問に答えたのは、上半身を起こしたイオソードだった。

   「あそこの柵の下だ」

   指差す先を見ると、そこはちょうど彼女が最後の攻撃を仕掛ける前に立っていた場所だった。

   「オレが取るよ」

   駆け寄ろうとした私を制して、マスターがそこまで歩いていく。

   「下に落ちなくてよかったな」

   その様子を眺めながらイオソードがぽつりと言った。

    確かに、もし鞘が跳ね飛んで屋上の縁を越え、地上の通行人や自動車にでもぶつかったら大変なことに

   なっていただろう。危ないところだった。人間なら冷や汗を流すところだ。

    しかしそのことを指摘したのが、つい先ほどまで私を破壊しようとしていたイオソードだというのは、なんだか

   おかしかった。

   「ここ、へこんでるな」

    マスターは足元の鞘を拾う前に、イオソードが突進するために蹴った柵に何気なく手をかけた。

    そのとたん、ベニヤ板が倒れるようなあっけなさで、鉄製の柵の一部が根元から折れ、外側へ倒れた。

   あのときの衝撃で、すでに破断していたのだ。柵の重みに引きずられる形で、マスターは声を上げる間も無く

   屋上の外に転がり落ちてしまった。

    いいや、これは2秒後に訪れる未来だ――今なら間に合う!

    現実が幻視に追いつくより先に、脚部のリミッターを外して強引に加速。悲鳴を上げる関節にも風圧で

   飛ばされる帽子にも構わず、瞬きふたつで距離を縮め、マスターのコートの襟首をつかむ。そのまま上体を

   ひねって、腕の力だけで後方に放り投げた。

    外れた柵を握ったままのマスターが短い放物線を描き、コンクリートの床の上に投げ出されるのを、

   私は確認した。

    ……空中で。

    勢いがつきすぎて踏みとどまることができなかった。今から手を伸ばしても、縁には届かない。どうやら地上に

   落ちるのは刀の鞘でもマスターでもなく、私自身のようだった。

    この高さから地面にたたきつけられれば、大破は免れない。でも大丈夫。ロボットだから、破損個所を直せば

   元通りになれる。修復しきれない可能性も高かったけれど、マスターを守ることができたのだから、スクラップに

   なっても悔いはない。

    そのはずなのに、どうしても耐えられないことがあった。

    ――壊れた私を見たら、あの人はどんな顔をするだろう?

    名残をこめて急速に遠ざかるホテルの屋上を見やると、驚いたことに私のすぐ後を追って、イオソードも柵の

   切れ目から身を躍らせていた。

    コートを脱いで華奢な体を夜風にさらした彼女が両手両足をいっぱいに伸ばすと、そこから燃え上がる炎のように

   金色の光があふれだした。そして、輝きに照らされた彼女の唇が、耳慣れない言葉を紡いだ。

   「イオ・システム、発動!」

    きらめきが私に追いつき、激しく逆巻く風を呼んだ。落下速度が衰え、ゼロになる。見えない翼に引きあげ

   られるまま建物の外壁を滑るようにたどり、屋上で呆然と見つめるマスターの前も過ぎて、さらなる高みへと

   駆け上がった。





    頭上には、雲に囲まれた冬の月。眼下には、人の営みを映した街の夜景。その狭間、果てしなく広がる大気の

   ただなかに、私は浮かんでいた。

    もはや人型ではなくなったイオソードの機体がフライトユニットとなって私と一体化し、飛行能力を付与してくれた

   のだった。私の背で空気の渦を作って揚力を発生させているのは、彼女の四肢が展開した8本の黄金の

   ブレードだ。

   (そう、これがあなたの――)

                (――私の剣)

    思考を音声や文章に変換するよりも早く、答えが返ってくる。触れ合い、抱き合うよりもなお近く、私と彼女は

   並んでいた。お互いの機体を直接制御することも可能ながら、それぞれの独立性は侵されない。完全なる調和を

   もって2体のロボットのAIを結ぶのが、彼女に搭載されたイオ・システムだった。

   (でも、これは――)

          (――大きな危険性をはらんでいる)

    この技術を不用意に使えば、無制限にロボットへのハッキングを許しかねない。そうなればセキュリティは

   有名無実のものとなるだろう。

   (それも無理なからぬこと。初めからすべて図られていたのだから)

     システムを介して、私は彼女の過去にアクセスした……。




     私たちコミュニケート用機体が開発中だったころ、萌須田社は並行して別系統の計画を進めていた。目的は、

   汎用ロボットに特殊能力を付与するための外部ユニットを、それ自体人型ロボットとしても活動できるように

   すること。状況によってユニットにも独立した機体にもなれる新型が完成すれば、ロボット運用の柔軟性は

   大きく向上するだろう。関係者の期待は大きかった。

    ユニットと使用者のAIがコンフリクトを起こす可能性が長らく懸案事項だったが、両者を同調させるイオ・

   システムの実験が成功したことで問題解決され、ようやく実用化のめどが立ったその矢先に、突然計画は

   中止された。立案者が産業スパイであり、システムの実態が情報流出用のツールであることが発覚したのが

   理由だった。

    ロボットの信頼性と安全性を守るため、計画に関するデータはすべて抹消された。そして唯一の実験機

   イオソードは、解体されることが決定した。

   (だが私は脱け出した。何も成さぬままに消え去るなど、我慢ならなかった!)

    スパイが用意していたダミーを代わりに処分させて人目を欺き、彼女は姿をくらました。しかしそれで彼女が

   手にしたのは自由の日々などではなく、延々と続く空虚な時間にすぎなかった。ロールアウトしたコミュニケート用

   ロボットたちがそれぞれのモニターのもとで感情を学び、成長していくのを、イオソードは陰から眺めていることしか

   できなかった……。

   (ずっと待ち望んでいた。いつか現れるパートナーを。この身を預け、共に空をかけるべき相手との出逢いを。

    ああアイリス! おまえを一目見た時から、私は……)





    短い間スリープ状態にあったらしい。再起動して目を開くと、そこはホテルの屋上だった。

   「目が覚めたかい」

   耳元で優しい声がする。私はマスターの腕に抱きかかえられていた。普段ならあわてて離れようとするだろう

   けれど、今は気恥ずかしさよりも疑問が先に立った。

   「彼女は、イオソードはどうしました?」

   マスターは屋上の出口の鉄扉を見やって言った。

   「行っちゃったよ。オレには『迷惑をかけてすまなかった』って謝ってたけど、他には何も……」

    そこで言葉を切って、マスターは気遣わしげに私を見た。彼女をうまく説得できたのかどうかと聞きたいのだろう。

   はたから見ていたマスターにしてみれば、落ちた私が今度は飛び上がったりと、何が起きたのかよくわからな

   かったはずだ。

   「彼女のことなら、もう心配いらないと思います」

   私はマスターの胸にもたれてつぶやいた。

    そう言い切るだけの確証があったわけではなかった。ただ、イオソードの記憶を垣間見ているとき、彼女の思考の

   断片が残響のように聞こえてきていた。だからきっと彼女にも、私が回路の奥で叫び続けた言葉が届いていると

   信じたかった。

    あなたを想うものはここにいる、と――。





    私とマスターは予定より20分遅れでディナーの席に着いた。あのドレスはサムライソードを携行するための

   口実として用意したものだったけれど、実際に身につけることになった。もともと着ていた服が、屋上での立ち

   回りのせいですっかりほこりまみれになってしまったためだ。

    地上17階の展望レストランから見る夜景も、さらに高い所に上った後ではとても楽しむ気分にはなれなかった

    けれど、出された料理はどれも素晴らしいものだった。何を食べたのか、帰宅後に質問攻めにされることがLPSを

   使うまでもなくわかっていたので、見慣れないものばかりのメニューを可能な限り解析して記憶しておいた。

    だけど、その席でマスターと交わした会話の内容は、何度聞かれても明かすつもりはなかった。これは私だけの

   秘密だ。

    秘密といえば、ホテル屋上の鉄柵を壊してしまったことは、隠しておかざるを得なかった。直に破損させたのは

   私たちではないけれど、当事者には違いない。黙っていることに罪悪感はあったけれど、ホテルに事情を

   説明しようとすれば、連鎖的にイオソードの存在も明るみに出てしまう。せめて彼女が再び身を隠すだけの

   時間は置きたかった。

    とはいえ、あのまま放置しておくこともできないので、どうにかして私自身で直すことも覚悟していたのだが、

   「柵は修理した  I.O.S.」

   という発信元を特定できないメールが2日後に届いた。行方をくらます前にわざわざ戻って作業し、それを報告して

   くれるとは律儀なことだった。自棄になる前の彼女は、そういう性格だったのかもしれない。

    しかし、こうして事実の隠蔽を図っても、モニタリング期間が終了して私のログが精査されれば、彼女と接触した

   ことは萌須田社に知られてしまう。そのころには彼女がずっと遠くまで逃げているよう、願うばかりだった。




    ただ後になって疑問に思ったのだけれど、現在もイオソードが稼働していることを知っているのは本当に私たち

   だけなのだろうか?

    身代わりを使ったと彼女は言っていたが、どれほど精巧なダミーでも、彼女を一から造り上げた開発者たちを

   騙し切るのは難しいだろう。あえてそれに気づかぬふりで解体を行った人もいたのではないか……?

    この問いに対するイオソードの答えを聞いてみたいものだ。いつの日かまた、あの黄金の剣で風を切って

   飛びながら。





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