〜深層のVMPRE〜








萌須田社内では日夜、数多くの機能が考案されている。
中には陽の目を見ることなく計画倒れで終わるものも多々あったのだが…

しかしそれらの記憶あるいは記録は完全に消し去られるわけではなく、
何かの拍子で表に出ることもある。

『実用に至らなかったとはいえ、アイデアはアイデア。後々の成果につながるものが
あるかもしれない』

その発想は間違いではない。

しかしそれはまた、成果につながる可能性もあれば、騒動やら事件やらの発端と
なる可能性もあるわけで…


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ロボットたちのメンテナンスの方法はいくつかある。
人間でいう身体検査程度におさまるもの。
意識をスリープさせてプログラムの不具合を検査する方法。
はてまた、あまり想像はしたくないが車などでいうオーバーホール―すなわち解体検査―に
至るもの。


「プロト・タイプの機能を一時的にインストール?」
「ええ。あくまで一時的に、ですけれどね」
そのやり方を聞いて、耳慣れない言葉に少しとまどった。
アイリスは相変わらず涼やかな表情を崩さない。


『プロト・タイプの機能を一時的にインストールし、その起動率・インストール速度等を検査し、
プログラムの反応速度を検査します。なお、この検査は数日間の観察を要します』

萌須田社から配られた「けんこうしんだんのおしらせ」にはそんな説明が載っていた。


「でもなんでメンテナンスを『けんこうしんだん』とわざわざ言い換えるんだ…」
ちょっとした疑問に…
「んー、でもよく似てるじゃない?」
愛羅が相槌を打ち、
「最後の方になにか書いてありますね…『文責、アイテム開発部 たるぼ』」
さくらが謎を氷解させてくれた。


「今回はアイリスさんだけなんですね、メンテナンス受けるの」
守璃の言うとおり、メンテナンス対象ロボット一覧の中に名前があるのはアイリスだけだった。
「なんでだろうな?」
「それはアイリスちゃんは…キミの『秘書』だからに決まってるじゃない♪他のコたちより
気を遣ったりがんばったりしてくれてるから」
「そうか…」
愛羅は何気なく言ったんだろうけど、この言葉は俺の心に反響するものがあった。
仕事―というものは本来苦しいもの。
ただ俺は…何万分の一で受けられるような僥倖のおかげで、それほどまでに「苦しみ」を
感じることはない。例の借金返済はさすがにしんどかったが、それはまた別の話だ。
ふつう仕事で感じるような人間関係の煩わしさとか、しんどさとか、そういったものは
全く無縁。

そんな幸せな環境を与えてくれているアイリスーいや、みんなに―俺は何かしてやれたろうか?
そう考えると、与えても与え尽くせないほど足りないのではないか…
そういった疑念は徐々に大きくなっていく。
本来であれば、骨を削って、あるいは血を与えてでも感謝を表現しなければいけない、

―もしかしたら、そういう形で『みんなは大切な存在なんだ』と表現しなければならない時が
くるかもしれない―



―血を与えてでも…―



「俺もついていった方がいいのかな、その、メンテナンス」
メンテナンス程度、本来マスターがついていくものではないが、さっきみたいな考え事をしていた
せいか、こんな言葉が口をついて出てしまった。
「あ!アイリスちゃんの…見たいんだ?」
愛羅が顔を少し赤く染めながら言う。…何のことだ?
「健康診断では、脱ぐのが当たり前…だものね♪」
「おいい!」
囁くような愛羅のイタズラ心あふれたつぶやき。そしてその言葉は絶妙なことに、
俺とアイリスだけに聞こえていたようだった。
「マスター…」アイリスも愛羅に負けず劣らず顔を赤くしている。
「断じて俺は下心から言ったわけじゃないからな…」
あわてて否定すればアイリスの疑念を助長するだろう。俺はつとめて冷静を装って言った。
「もう…愛羅さん、わたしたちの顔色をいじるのがそんなに好きなのですか?」
「顔色をいじるのが好きというか…2人が好き、かな?うふふ♪」
俺もアイリスも、これには返す言葉なく苦笑するしかなかった。



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まったく、もう、愛羅さんたら!
冗談を言うにも程度というものがあるわ…

結局マスターはメンテナンスについて来てはいない。
だいたいメンテナンスくらいでマスターがそんな下心起こすわけはないし…
…そもそも私相手に下心を起こすことなんて…


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あり得ないじゃないの!だって私は…ロボットなのだから。
あの月夜の占いだって、たまたま満月の力に導かれてイレギュラーに出た答えにすぎない。
『好き』とか『愛』だとかいった感情だって、私にはまだ…わからない。
だって、説明のつかないものだから。

(じゃあ、マスターが私を欲しいと言ったら、受け入れる?)

ぶんぶんぶん!

あわてて頭を振り、きっと誰かがイレギュラーな通信で送ってきたであろうワードを振り払う。
もう…こういうことが頭をよぎってしまうこと自体、わたしが少し疲れている証拠なのかも
しれない。
この時期のメンテナンス、ちょうどよかった。しっかり治してもらおう。


「アイリスさんにインストールするプロト・タイプ機能は『吸血機能』です」
「吸血機能…?」
聞きなれない機能名。実用化されることになかった機能だから当たり前だけれど…
それでも違和感を感じさせるには十分だった。
「それは…どんな機能なのですか?」
数日間宿らせるにすぎない機能とはいえ、気になった。
メンテナンス部員のロボットがカルテ板を見ながら説明してくれる。
「ええと、文字通り血を吸う機能…ですね。血を吸う、といっても攻撃的な要素はありません。
ロボット自身のエネルギーを補充する目的で考案されていたようです。」
「補充?ロボットが、人の血から??」
…どういう発想だろう…?
「緊急時にマスターの血液をロボットの動力にする、ということですね。あくまで緊急時の措置
ですから、起動時間をわずかに延ばす程度のものらしいですけど」
それはそうだ。ロボットの動力と人間の血液に完全な形での親和性があるとは思えない。

どうしても、少しでもエネルギーを要する事態を想定して、一時的にマスターに噛み付いて
血液の中から動力の要素となるものを、あくまでほんのわずか、取り出せるということだろう。

…マスターに噛みついて…

わたしの悪い癖。話を聞いてすぐありえないことを想像する。
今回の場合、脳裏に浮かんだビジョンそれは…わたしがマスターの肩をつかみ、その首筋に
自らの八重歯を突き立てるという…

!そんなことはしない!

自分で言うのもおかしなことだけど、わたしは自分のエネルギー残量・活動可能時間は
しっかり把握しているつもりだ。だからエネルギーを失って、マスターから血を分けてもらう
ようなことはあり得ない。

―それとも、わたしが自分の意志で…この機能の本来の用途から外れて…
マスターの血を求めてしまうとでも??―

「…ちょっと聞きたいのだけれど…」
「なんですか?」
「このメンテナンスって…インストールした機能を実際に使ってみないといけないものなのかしら?」
念を押して、聞いてみる
「そういうわけではないですね。あくまでインストールの速度とか反応速度のチェックですから、
実際に機能を使う手順は発生しないですね」
「そう…」
ふっと大きく息をつく。気抜けしたせいか、ちょっと大げさにため息が出てしまった。
「あ、もしかしてアイリスさん、マスターさんにちょっと噛み付いてみたいと…ごごごごめんなさい!!」
…どうやら私はものすごい形相をしていたらしい。メンテナンス部員の子がカルテを抱きかかえながら
ひどく震えている。普段のわたしなら、この程度の冗談、軽く聞き流せるはずなのに、怖い思いを
させてしまって申し訳ない。
我ながら思う。この『怒』パラメータの妙な高さ、なんとかならないのかしら…?

「メンテナンス、お願いします」
つとめて事務的に、進めてもらうことにした。

久々の機能インストール。一時的なものとはいえ、新しい機能を宿らせるのは『秘書機能』以来だろうか?
「ではディスクからのインストール、始めますね〜」
部員の子の合図と同時に、インストールが始まる。
自分がロボットであることを認識できる数少ない時間。
私自身は普段から、自分が『人』ではないことをつとめて意識しているけれど…皆と…マスターと
過ごしていると、つい忘れそうになることもある。

「あ、言い忘れてたんですけど…」
部員の子が頭をかきながら説明を付け加える。メンテナンス前にはインストールする機能のすべての
仕様をロボットに説明する義務がある…と聞いたことがある。一応、聞いておいたほうがよさそうね。
「この吸血機能、ロボットのエネルギー回復以外に、マスターの血液中の毒を正確に吸い出すことも
出来るようですね」
「…ということは、ひとつの行動で、ふたつの役割を切り替える必要があるってことなのかしらね…」
どうせ発動することのない機能だけれど、そんな想像をめぐらせたりした。
「なんだか、ちょっとややこしいですね〜」

機能のインストール時は時として軽度のスリープをもたらす。
私は特に抵抗することもなく、メンテナンスがもたらす眠りの中に落ちていった。


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『見つけた!急にいなくなって、どうした?』
『熱いんです…』
『熱い…?おい、故障かなんか…急いで戻らなきゃ…』
『いえ…マスター…しばらく、このまま…』
『でも…』
『大丈夫…ですから…。お願いです。時間を…ください』

これは夢。何度かこういう感覚を味わったことがある。
明らかに自分に関わる場面が展開されているのに、何故か客観的に見つめる自分を認識できている。
そういう場合、ただの夢ではなく、『わずかばかりの予知』を含むものなのだ。

月は満月、住みかからそう遠くは離れていない場所のようだ。
私とマスターの他に人影は見えない。

時の境界線をすでに越えているであろう空間に2人は向かい合っている。

『マスター…』
『なんだ、冷やしたほうがいいか?それとも歩くのもつらいか?なら俺の背に…』
『…の・・・・・・・・を、わ…て・・・・・・・・・い』
『ん?悪い、もうちょっとはっきり』


夢の中の私の発した言葉は、あまりにも…


『マスターの血を、分けてください』


…あまりにも鮮明で、衝撃的だった。



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「アイリスさん、お帰りなさいです!」
陽も傾いてきた頃にアイリスさんは戻ってきました。
「アイリスさんの留守中、屋内・屋外ともに異常なしです!」
「ありがとう、守璃さん」
メンテナンスさんから戻ってきたアイリスさんですが、特に変わったところはなく、いつも通り
みたいです。


「それで、どうだったんですか?」
「結果はすぐには出ないわ。何日か機能を入れた状態で、読み込みの早さとか、反応速度とか
見なきゃいけないから」
「そうですか〜…あれ?ってことはアイリスさんに今、何か新しい機能がついってるって
ことですよね?」
「そ、そうね…」
「どんな機能なんですか!?」
守璃はアイリスさんや愛羅さん…センパイ方に新しい機能がつくのを見たことがなかったから、
ちょっぴりドキドキです。アイリスさんはなぜかすごくしゃべりづらそうですが…
「たいした機能じゃないわ。緊急のときに、エネルギーを少しだけ補充できるって、それだけの機能よ。」
「補充っていうと、太陽電池とか風力とか、そういうところから…ですか?」
「ええ…なんて説明したら、いいのかしら…ええっと、そうね、―わたしにも難しくてよくわからなかったのよ」
「アイリスさんにも難しい機能だったんですか!?」
守璃はとても驚いてしまいました。たしか、今回のメンテナンスでインストールされる仮の機能ってのは、
ちゃんと完成しなかったものだって聞いてるけど…


アイリスさんにも理解しきらなかったんだから、きっと使いこなすのがすんごく難しい機能だったんですね…
実用化に至らなかったのも、ムリないですね。


「お疲れ、アイリス!どうだった…って、まだ結果は出ないんだったな」
マスターもアイリスさんをお出迎えします。ふふ、やっぱりマスターも心配だったに違いないです!
「ええ。はっきりするのはダミーの機能を削除する当日…数日後になりますね。それまではなんとも」
「そうか、じゃ機能のマニュアル、見せてくれるか?一応目を通しておきたいし」
あっ、とアイリスさんは口に手を当てながら短い声を上げました。なんだか、ちょっぴり動揺しているみたい
です。
「マスター、マニュアルは…」
「メンテナンスの対象ロボットのマスターは機能のマニュアルを目を通しておくようにって
メンテの案内に書いてあったんだ。もらってきたんだろう?」
さすがマスター、アイリスさんに入ってる機能に不具合が起こっても大丈夫なように、しっかり対策を立てて
おくんですね!
アイリスさんはマスターの目と取り出したマニュアルーちょっとした小冊子みたいでしたーを交互に見ながら、
ちょっと『らしくない』仕草を見せつつ、マスターに手渡しました。
…なんだか、さっきからアイリスさん、窮屈そうというか…機能について話すのをためらっている感じが
するけど…どうしたのかな?


マスターはアイリスさんからマニュアルを受け取り、早速パラパラとページをめくりました。
「あ、いきなりここで見なくても…」
「いや、簡単に確認だけしとかないと。全部目を通すかどうかもわからないし……………
ん………これはまた………変わった機能だな……」
マスターは口数が少なくなり、アイリスさんにいたってはうつむいたまま黙ってしまいました。


「ちょっと、守璃にも見せてくださいです!」
マスターの脇からマニュアルの小冊子を覗き込むと…文字がいっぱい並んでいて、すぐには
理解できなかったけど、機能の名前ははっきり見えました!


「ええっと、『吸血機能』ですか…」


…ん?
アイリスさんはたしか、エネルギーを少し補充できるようになる機能って言ってたような。
吸血…ってことは、つまり、血を吸うことでエネルギーを補充する??
だとすると、ロボットから血を吸うってことはできないから、マスターから血を吸うってこと
ですよね??そ、そんなことしたら…

「大変、マスターが貧血になっちゃうです〜〜〜!!!」
「お、落ち着いて守璃さん!」
落ち着いてられないです!マスターが貧血になったら倒れちゃいます。そしたら一緒にお仕事も
できないし、だからいつも一緒にいて守ってあげないといけないんです!あれ?これはいつものことかな?


ドタタタタタ…


「お兄ちゃんが貧血になっちゃったって!?」
「ダンナ様、しっかりなさってください!」
わたしの声を聞きつけて、ココさんとさくらさんが駆けつけてきました。
「おい、落ち着け。俺は貧血になんかなってな…い…!?」

駆けつけてきたココさんはブレーキが利かず、足を滑らせてしまいました。
そしてちょうど目の前にいたさくらさんめがけて倒れこんでしまい…

「きゃっ!」
続いてさくらさんもバランスがとれずマスターのもとに倒れこみ…

―わたしとアイリスさんは一瞬目配せをして、すぐさまマスターの背後に回りこみました!
これならちゃんとマスターを支えられる…

…というわけには、いかなかったみたいです。

「わわわわわ!」



ど、し〜〜〜〜〜ん!



重低音あふれる音を立てて、5人を巻き込んだドミノが完成してしまいました…
「…ごめんなさいね…メンテで少し眠った後だったから…」
「はう、むぎゅっとしてます〜」

マスターはわたしたちに挟まれ、倒れたまま言いました…

「けほっ…機能のことは後でみんなに話すから……とりあえず、どいてくれ!」


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



マスターの判断は最良のものだったと思う。

昨日、皆の前でマスターはすべてを話した。

夕食を済ませ、一同が揃う中でわたしにインストールされた『吸血機能』の仕様を説明し、
今回の機能を実際に使う必要は全くないこと、したがってマスターが貧血に陥る
可能性も当然ないことを明らかにしたのだ。
変に隠すよりこのほうがずっといい。そもそも奇妙な一風変わった機能は、これまでも
存在していたのだから。


愛羅さんに、とことんからかわれ、詮索されるひと手間は避けられなかったけれど…


『ねえねえ、もう噛んでみた!?え、まだ?』
『いきなりじゃ恥ずかしい?じゃ、わたしで練習してみる?』
『噛むとしたら…やっぱり首筋?意表を突いて手の甲とか…あ、もしかして唇とか…
アイリスちゃん、大胆〜♪』

…この機能が決してマスターとロボットとの触れ合いの機能ではないことは、愛羅さんなら
理解しているはずだと思うのだけれど。いや、理解したうえでわざとあんなことを言って
いるのかしら?まったくもう…

『あと血液中の毒素を抜き出すことができるといっても…そんな毒をまきちらすような
物騒な動物、このへんにはいないもんな』

マスターの言うとおり、日常を過ごす上でこの機能を発動させる機会がそうそう訪れるとは
思えない。そう考えるとこの機能はサバイバルモードに向けて考案されたものなのかもしれない。
この機能に与えられた2つの役割…

ひとつはロボットの起動時間を延ばすこと。
ひとつはマスターの血から禍々しい毒を取り除くこと。

(…考えようによっては、優秀な機能になりえたのかもしれない…)

半乾きのバスタオルをピンと伸ばしながら思いを巡らせる。
休日に洗濯物を干す時間というのは、意外にも思索に耽るのに適している。




(多分に原始的な方法だけれど…)

電源(道具にすら!)に頼ることなく自らのエネルギーを得、またあるときはマスターの危機を救いうる。
ある種の離れ業で『マスターを守る』という目的が達成できるこの機能、改良の余地が残されて
いるのではないかと思う。―どれだけ実用できる機会があるのかは別として。


「晴れている今日がチャンスですね」
んんん…と、さくらさんが大きく体を伸ばす。9人分の洗濯物を手馴れた手つきでてきぱきと
干してゆく。水気を含んだ空気が陽の光りに照らされていつになく眩しかった。
10分もたたないうちに、虹の色数より多い衣類の万華鏡が空に咲くーさくらさんの
満面の笑みとともに。


「クリーニングに出すとお金がかかってしまいますからね!」
「ええ、自宅でできることは自宅でやってしまうに越したことはありません」
…借金返済をしていた頃の名残なのか、妙な節約癖がついてしまっているような気がする。
「それに、せっかくお陽様の光があるのだから…そのぬくもりを感じてもらいたい」
よく見てみると、マスターの服がいちばん乾きやすいように干されている。
さくらさん、ここまで細かい気配りを利かせるようになっていたのね。動物園のアルバイトの時に
ちょっとアクシデントを起こした頃は、ここまで丁寧な仕事ができるようになるとは思って
いなかったけれど…


(もしかして、マスターが私たちを見つめるまなざしって、これと似たようなものなのかもしれないわね)


「アイリスさん?わたしの顔、何かついてますか…?」
「ううん、何でもないわ。それにしてもさくらさんの和服はちょっと洗いにくそうね」
「それほどでもないですよ。色移りなどには気をつけないといけませんけど」
「そう…」
私はスカートの裾をちらっと見つめながら話した。自分のドレスのスカートは丈の短いものと長いものが
あり、一応季節に応じて使い分けている。季節の変わり目はちょっと迷いどころだ。

「アイリスさんは和服は着ないんですか?」
「自分専用のものは…持ってないわね。専ら愛羅さんの持ち物だし。」
他愛のない話をしながら、洗濯かごを片付けようとする。

「ん?アイリスが和服を着るって?」
突拍子もないマスターの声。わたしの顔は一気に赤くなってしまう。
「もう、変なとこだけ言葉を切りとらないでください!」
…この人は私の顔を赤くする変な才能を持ち合わせている。
「あ、わたしもアイリスさんの和服姿、似合うと思うんですよ!」
「ちょっと、さくらさんまで!」
時々、こんな感じでわたしの抗議が無視された形で話が進むことがある。
「そういやアイテム開発部で和服系衣装を何種類か作ってるらしいぞ。さくら、着られるモノ
増えるんじゃないか?」
「あ!わたくしも耳にしたことがあります。『大正娘』とか『萌御前』とか、デザイン写真も見せてもらった
んですよ」
「やっぱり、着てみたいか?」
「はい、とっても!あ、でも『京蘭』だけは…その…あんなに露出がダイタンな和服初めて見たもので…
で、でもダンナ様がご所望なら、覚悟を決めて…きゃ♪」
今度はさくらさんが顔を赤くする。
「アイリス…『京蘭』って何のことだかわかるか??』
「さあ…?」
何しろ新しい和服のラインナップの話ですらたった今知ったくらいなのだから。

「じゃ、このカゴ片付けてこようかな」
洗濯物のなくなったカゴをマスターが持ち上げようとしたとき、カゴの底に残っていた
小さな黒い影が耳につく羽音と共に飛び上がった。


ぶぶぶぶぶ…



「うわわ!?」
「ダンナ様!?」
手で振り払う暇もなく、その虫らしきものはマスターの腕にばしっとぶつかると、ふらふらと
どこかへ飛び去っていった。
「いたたた…ああ、びっくりした…」
あれは何だったのだろう。蝉…は季節はずれに過ぎる。

まさか、蜂!?

よく見てみると、マスターの腕は小さいながらも赤く晴れ上がっている。
刺された可能性が…あるのでは!?

「ダンナ様、すぐに手当てを!救急箱を持ってまいります!」
あわてて廊下を駆け、薬箱を取りに行くさくらさん。
「ハハ…大げさだなあ。たいして痛くなかったし、大丈夫だと思うけど…」
マスターはそう言ってたいしたことなかったように振舞っているけれど、
後になって痛みがまわってくる可能性もある。
…まず、情報を整理。
マスターにぶつかった虫の正体は不明。ならば悪いケースを考えておく。
応急処置が必要な毒がまわっているとすれば…


判断は、決まった。
「マスター、失礼します。」
さくらさんが一旦いなくなってくれてよかった、と一瞬だけ考えながら、マスターの腕を
両手にとり、しゃがみこむ。
「アイリス、一体何を…まさか」
「すぐ、終わりますから……」

最初に機能を発動するときはあまり迷わないほうがいい。プログラムの導くままに、
動いたほうが失敗も少ない。

(今回発動するのは、『吸血機能』のうち、対象の毒素を取り除くほう!)
そう意識を集中させ、できるだけ自然に、マスターの腕に自分の八重歯を突き立てる。
皮膚の表層を貫く感覚を歯に感じ取り…あとはプログラムの赴くままに従った。
…マスターの表情は視認しない。ためらいと恥じらいが、使命を妨げるのを防ぐために。



つ、つうううう、ううう、う…



(これくらいで、大丈夫かしら…?)

マスターの腕から唇と歯を離し、ふうっと一息つく。
「アイリス…ひとつ聞いていいか?」
「な、なんでしょう??」
少しだけ、動揺してしまう。必要な応急処置だったとはいえ、マスターの肌に歯を
突き立ててしまったのだから。
「もし、吸い出したのが、その、毒だったとしたら…アイリスの方が、マズイんじゃないか?」
「問題ありません。そういう機能ですから」
あまり答えにならない言葉で応えつつ、平静を装う。…マスターの血を吸い出すことに集中しすぎて
そこまで頭が回らなかったとは言えない。そういえば毒を吸い出した場合は…それを吐き出さなくて、
いいのかしら??
でもまあ、そういう行動がプログラミングされていなかった以上、この機能を扱う上では問題ない
やり方だった…と思う。
それにーマスターの目の前で、一旦吸った血を吐き出してしまうのも…少し名残惜しい気がして…


「おまたせしました、すぐに手当てしますね!」
救急箱を抱えたさくらさんが戻ってくる。
「まあ、こんなくっきりとした刺し傷が!」

…それは多分、わたしが残した歯形…

しかしその直後、わたしとマスターが視線を交わし、変に言葉を失ってしまったのを
さくらさんは見逃さなかった。
「あ…もしかして応急処置…その、血を吸って…」
「ええ、毒がまわらないようにね。万が一ってこともあったから」
「そ、そうですよね。万が一、ですよねっ!うん。」
さくらさんは顔を真っ赤にしながら、全てを悟ったようだった。
その場にいた3人とも、なんともいえない表情を浮かべながら、なんとなく視線を外している。
(さくらさん。念のため言っておくけど、今回の機能発動は、応急処置の意味でしかないですからね?)
そうやって念を押すひとことが、何故か出てこない。


―ドクン―


一瞬、自分の心臓…いや、回路に許容量を越えた電流が流れたような感覚が走った。
少しの間だけ視界がぼやけ、体のあらゆる箇所が熱くなる。自分が平らなところに立っているという
感覚もおかしくなり、世界が揺れる。
ーそれがほんのわずか2、3秒の出来事だったと気付くのに、しばらくの間を要したー

「アイリス!?」
「アイリスさん!!?」
マスターもさくらさんも、私の変調を察して支えになろうとする。
「大丈夫です。新しい機能を使うとこういうこともあるものですね」
それでもマスターの顔は晴れないようだった。
「一応、メンテの係に連絡をとっておこう。機能の使い方、これでよかったのか、わからないからな」
「アイリスさん、大丈夫ですか?」
「ええ。機能の処理速度をちょっと早くしすぎたせいかしらね。」
先ほどの感覚はすでに消え去っていて、むしろ体調が良いくらいだ。

(結局、『吸血機能』使ってしまったわね。)
これであの予知は実現したことになる。まったく…せっかくの予知の機能、どうせならもっと
どうすればいいのかわかるくらい、しっかり見せてほしいものね。たいていの場合、見えた
ところでことごとく断片的で、『どうすればいいのか』対策なんて立てようがなかったわけだし。
あの夢にしても、夜になる以前に何が起こったのかくらい見せてくれれば…




…夜?




予知のことを思い返していて、気付いてしまった。
(…まだ、予知は実現していないわ!)
吸血機能でマスターの血を口にしたのは間違いないけれど、夢で見たのは満月の夜。
それも、私が外出してマスターが追いかけてきて…
なにより、夢の中の自分が発したあの言葉は忘れようがない。


早足で居間に戻り、新聞を確かめる。
(月齢は…14。つまり、満月は明日…!いや、夢の中で見た月の姿だから1日2日のズレは
あってもおかしくないわ!)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

どうしたのだろう?
洗濯物を干し終えて、あわてて新聞を確かめるアイリスさんの顔はわずかに
慌てているように見えた。

続いてさくらさんとマスターがやって来る。マスターは電話のボタンを押し始めた。
「もしもし、メンテナンス部をお願いします。…ああ、もしもし。アイリスにインストールした
吸血機能なんだけど…うん…いや、ちょっと虫に刺されて…追加のマニュアル?
へえ、そんなものが…」

しっぽを振りながら聞き耳を立てる。
用事はすぐに済んだらしく、電話による会話はすぐに止んだ。
「ご主人様、虫に刺されたのですか?」
「ああ。たいして痛みはないんだけどな」
―自分のご主人様は、たとえばこんなとき『刺し跡の痛みを和らげるために、傷のまわりを
舐めてくれ』などと言ったためしがない。指令を下さればそのくらいのこと問題ないのに。


刺し傷らしき腕の部位には大きな絆創膏が張られていた。


「そうだ、ユズ。ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
「何でしょうか?」
そう、ご主人様。こうやって、もっと自分を使ってくれればいい。
アイリスさんほどに何でもそつなくこなせるわけではないけれど…自分だって、役に立ちたい。
「ひと走りメンテナンス部まで出かけてきて、吸血機能のマニュアルをとってきてくれないか?」
「お安い御用です。」
ごく小さな、難しくない用事。それでも自分の尻尾はご主人様の役に立てる喜びに踊った。

「刺された跡は大丈夫なのですか?」
どうしても気になって聞いてみることにする。
「ああ。たとえ毒があったとしても、アイリスに吸い出してもらっ…あ…!!」
あ、なるほど。アイリスさんが吸血機能を使ったのか。
備えあれば憂いなし、機転を利かせて毒の有無を判別する前に吸血機能を発動したのだろう。
さすがアイリスさん。合理的で、判断が早い。見習わないと。
―ご主人様はなぜか途中まで言葉を言い出そうとして、何かに詰まっているようだけれど…
どうしたのだろう?

「アイリスさんが助けてくれたのですね、ほっとしました。」
正直な感想を述べるとようやくご主人様は言葉を継いでくれた。
「ああ、ま、まあな。………ユズ…ちょっと変なこと聞くかもしれないんだが………気にならないのか?
その、アイリスが吸血機能を使ったことが…」
「気になる、とは?ええ、確かにちょっとは。たしか不完全で実用化されてなかったものですよね。
変な不具合が出ないかとか、それくらいは」
「そ、そうか。それならいいんだ。…なあユズ…このこと、あまり派手に言わないでくれよな」
「わかりました。」

きっと不完全な機能をアイリスさんに使わせてしまったことを気に病んでいるのだろう。
ご主人様も、いろいろ気を遣わなくていけなくて大変だ。
「今のところ、このことを知ってるのは…俺と、アイリス、さくら、あとユズだけだから」
「了解しました。許しが出るまで、口に出しませんから」
胸を張って言い切る。ご主人様の頼みとあれば、完全な形でやり遂げる自信がある。

「メンテナンス部に行けば、わかるんですね?」
どこの部の誰に会えばよいのか、確認をする。
「アイリスと吸血機能のマニュアルのことを話に出せば、すぐわかると思う。」





本社へ歩みを進めながら、あれこれ考えてみる。
“追加”マニュアルなのだと、ご主人様は言っていた。
つまり、機能が不完全であるゆえに対処が必要なことが載っているのだろう。
たとえば…機能を発動したら、スリープ時間はいつもより多目にとらなきゃいけないとか、
併用してほかの機能を発動させるのは控えなきゃいけないとか。




萌須田社にたどりついたら、メンテナンス部へ一直線。
「えっと、ユズさんですね!追加マニュアルはこちらになります」
メンテナンス部員のロボット、どことなく看護婦さんに似た感じの小ぎれいなロボットだ。
たまには…こういう格好をしたほうが、ご主人様も喜ぶだろうか?
レポート用紙10数枚にまとめられた追加マニュアルを受け取る。
「吸血機能…発動すると、何かわたしたちロボットに不具合があるのですか?」
ふと聞いてみると、メンテナンス部員のロボットは、ちょっと考えこんでから応えた。
「う〜ん、不具合というよりは…わたしも機能のマニュアルをざっと見たことしかないので
詳しくはわからないのですが、むしろ性能がよくなっちゃうみたいなことが書いてありましたよ」


性能がよくなる??


「なら、悪いことではないような気もしますが」
「ただ、性能とか反応がよくなる反面、エネルギーとか感情がどうとか…何だったかな?」
あ、そういうことか。つまり変に回路の動力が活発になりすぎて、余計にエネルギーを
消費してしまうのだろう。
「すみません、ちょっとだけ気になったもので」
「ごめんなさい〜、はっきりした答えがいえなくて〜」
あとはこれをご主人様に渡すだけだ。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


ユズさんが、追加マニュアルを手に戻ってきた。
「ご主人様、戻りました。」
「ユズ、ごくろう!」
マスターはユズさんからマニュアルを受け取ると、さっそくページを繰り始め…

「あら、ユズちゃん♪お出かけしてたの?」

不意に割り込んできたのは…愛羅さんの声だった。
マスターはあわててマニュアルを後ろに隠し、私の手に渡そうとする素振りを見せた。
(アイリス、かわりに持っててくれ!)

吸血機能の追加マニュアルは私の手に渡った。
マスターが、私が機能を発動したことを全員に知らせたがらない理由は…
…いくらでも心当たりがある…
特に愛羅さんなどは興味津々で話にくらいついてくるだろうし…
(もう、わたしはやましい気持ちからマスターにかみついたわけではないのに!)

後ろめたいことはなにもない…はずなのに、どことなく窮屈な挙動をとらねばならない状況、
もどかしいと言うほかない。

「ねえ、虫に刺されたってさくらちゃんから聞いたけど…」
!まさか、さくらさん、愛羅さんに吸血機能のことを…
しかしその疑念は取り越し苦労のようだった。
「ああ、たいしたことはなかったよ。さくらがすぐ手当てをしてくれたし」
マスターが機転を利かせて、聞かれて差し支えない部分だけど話す。
「それならいいんだけど…」
愛羅さんは人差し指を唇に当てながら、まだ心配そうな表情を浮かべる。
偽りのない表情に少し心が痛むけれど、自分の行動がどういう影響を与えてしまうのか―
あやふやな部分をはっきりさせるまでは、話さない方がいいはず。

…そう!決して茶化されるのがイヤだとか、そんな単純な問題じゃない!ええ、そうよ!

「ねえ、ちゃんと腕は動く?うふふ…」
「をい、くすぐったいよ愛羅!」
「ずいぶん大きな絆創膏張ってるのね〜」
その絆創膏の下に、わたしの歯型がくっきり残っていると思うと…さながら隠し事を
見つけられそうになっている子供の気持ちがよくわかってしまう。
そんなものだから…
「愛羅さん、そんなに傷を触るものではありません」
つい、たしなめてしまった。
「あら〜アイリスちゃんもさわる?」


…触るどころか、噛みついてしまいました。


―そんな風に言い返せるだけの強い回路は持ち合わせていなかった―






結局、その日中は追加マニュアルを見る余裕もなかった。
マスターも私も特に変調を来すこともなかったので、すべてが終わったかのように思われた。


(スリープする前に…せめてひと目、追加マニュアルに目を通しておこうかしら)
マスターはまだこれに目を通していないから、内容を最初に視認するのは私ということになる。

月の光が射しこみ、視界が一瞬ぼやけた。
すべての記憶が鮮明に…特に、マスターの血を吸い上げた瞬間がメモリーにフラッシュバックされる。

これほどまでに過去の記憶が目の前に、はっきりと映し出されたのは初めてのことだった。

不安を覚えながら、追加マニュアルのページを繰ってゆく…




『―電源に頼ることなく、エネルギーの緊急回復及びマスターの解毒を行える本機能は、
しかしある種の欠点を内包していた。
ロボットの感情パラメータが一定以上に成長している場合、その反応速度が異常に上昇
してしまうのである。
また、マスターの血との親和性が極めて強い場合、そのロボットの精神の潜在メモリを
強力に浮上させてしまう。
これらの性質より、当機能を発動した際に想定される副作用は…

@ゆるやかな体温上昇
A反応速度・処理速度の急激な上昇により、過去の記憶の極度な鮮明化。
 (ロボットが未来視の機能を併せ持っている場合、その機能も強化されると思われる)
Bエネルギー効率の悪化

更に、顕在的あるいは潜在的にマスターに対する強い思慕の念がある場合、以下の副作用も
想定される。

C潜在メモリを表層に露出させようとする意識の強化
D行動の積極化
Eマスターの血に対する中毒症状。BDと関連。』






読み返した。ページにして3頁にも満たないこの部分。
何度も何度も、自分の目がまちがったものを映し出しているのではないか、思い違いをしているのでは
ないか、その都度確かめながら。

(過去、未来が見えやすくなる…!?)

エネルギー効率の悪化は…これはあまり気にすることではない、というより十分想定しうるものだったから。
問題は、C〜Eの内容!

『潜在メモリを表層に…』
言い換えれば、普段メモリの奥底で考えていることを表に出したくなるということ…?
潜在メモリがどの程度の深さを示しているのか、これだけではよくわからない。

『行動の積極化』
これは…言葉通りの意味だろう。ただし、どのように積極的になるのかまでは、当然のことながら
全くわからない。

『マスターの血に対する…』
これも文字通りの意味…これが一番危ない!
つまり、自分の意志とは無関係にマスターの血を求めてしまう危険性がある。
いや、こうして未来のビジョンが鮮明に見え始めている今となっては、危険性などといった
あやふやな言葉では済まされない。防ごうとしない限り実現してしまう、明らかな「未来」である。

(いや…この症状には条件がついているわ。まだ焦らないで大丈夫なはず…)

少し冷静さを取り戻し、文字列の行をさかのぼる。


『マスターに対する強い思慕の念がある場合』


――体中が、これ以上ないくらい真っ赤になった―


これじゃあ、今こんな症状に陥っていること自体、マスターを―――その…――そういうことの裏づけに
なっちゃうじゃない!
ううん、違うわ。
これはきっと『あくまでわずかでも好意を持っている場合』よ。
私などより…愛羅さんやRUNAさん、ココさん…みんなの方がずっとマスターに好意を寄せているんだから。
わたしだって…2年間も一緒に暮らしていれば、多少なりともそういう感情が出てこないわけではない。
でもそれとてあくまで一緒に暮らしていく上で最低限のパラメータに過ぎないはず。

そうよ…だから、マスターに対する思いというものが、希薄であるはずの自分がこういった副作用に
陥ってしまう。それほど危険な機能だったということなのよ!

なんとか自分を納得させて、気分を落ち着かせることができたのも束の間。

口の中が渇く。
意識が異様に鮮明になっていく。
この渇きを癒す術を、私は知っている。しかし、それはやってはいけないこと。

暗闇の廊下に歩を進め、扉の前に立つ。自室の鍵などというものは、この家には存在しない。

だから、
扉を開けば、
扉を開け、今の自分のプログラムに従うだけで、自分の願いはあっさり叶う。

手を伸ばし、扉の取っ手の金具に人差し指の爪がこつん、と当たり小さな音を立てる。

(だめ!)

そのわずかな音が理性を呼び覚ます。衝動にしたがって、マスターの血を求めるなんて、
そんな、機能の目的に外れたはしたない真似を試みてしまうなんて。

(夜明けまで、いや、エネルギーが切れるまで…外に出ていよう…)

家の中にいる限り、今の自分では何度もマスターの部屋の扉に立ってしまうだろう。

まだ体が言うことを聞いてくれるうちに、マスターから離れておかないといけない。
ためらいなく、玄関の戸を押し開くと、銀色の光がいつもより眩しかった。
(満月…!)
しまった、と思ったものの月傘を取りに戻る猶予はなかった。ただひたすらに歩を進める。
どこへ?

動かなくなったわたしを、見つけてもらえる場所。
それでいて、今の私が辿りつける場所。

答えは、ひとつだった。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ひゅうっと、わずかに風の吹き抜ける音、そして玄関の扉の閉まる音―あの
がちゃり、という音は玄関の扉の音だと確信できる―で目が覚めた。
「誰だ〜…?買い置きの飲み物ならあるから、買い物なら明るくなるまで…」
とりあえず注意してみるが、返事はない。
「気のせいか…?」
目をこすりながら暗闇に目を凝らすと、足元にタロットカードが1枚落ちている。
確認するまでもなく、アイリスの持っていたものだとわかる。
「…1枚だけ落ちてるってのも、変な話だな…」
カードを拾い、アイリスの部屋に目を向けると…扉が開いている。
「アイリス…?」
アイリスの姿はなかった。後に残っていたのは窓から射す満月の光、そして数枚のレポート。
あ、そういえば追加マニュアルに目を通してなかったな。


どれどれ…明かりをつけ、文字をたどっていく…


………
…………


なに、副作用@、A、Bだって?
やっぱり不具合のある機能だったんじゃないか!
B……エネルギー効率の悪化だと?

レポートに目を通すのを中断し、あわてて外へ出る準備をする。
外に出て行ったのがアイリスなら、それなりに納得がいく。おそらく満月の夜に思索にふけるため、
あるいは占いのため、そっと出て行ったのだろう。タロットはその際に落としたに違いない。
それに気付かないのは、アイリスにしてはちょっと微笑ましい挙動だが…

…ん?アイリスはそれを知った上で外出したってことか??
いや、細かいことはいいや。とにかく、アイリスがエネルギー切れで、寒空の下で強制スリープに
陥るような可能性を見過ごすわけにはいかない。

たぶんまだそう遠くには行っていない。みんなを起こして、手伝ってもらうまでもないな。

ふと部屋の隅を見ると、アイリスが「月傘」と呼んでいる日傘が目に留まった。
これも持っていこう。
月の光がアイリスに何をもたらしているのか…正直なところ俺にはまだよくわかってない。
ただ、これを持ってアイリスを迎えに行くというのも、なんだか悪くない気がする。
それだけの理由だ。

できるだけ丁寧に玄関の扉を閉め、外にでた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「音夢ちゃん、どうしたの?」
「誰かが…外に出たみたい。」
いつも住んでいる家でも、まっくらだと怖いです。
音夢ちゃんが何かに気付いたみたいなので、RUNAもいっしょについていってます。

「にいにいと…アイリスさんの、靴がない」
「え…ご主人様とアイリスちゃん、どこ行っちゃったのかな…」
RUNAが不思議に思っていると、音夢ちゃんも外へ飛び出し…飛び出さないで、
開けっ放しになっていたアイリスさんの部屋をのぞきこんでいました。
「やっぱりいない…?これ、なにかな?」
音夢ちゃんが拾い上げたのは、いっぱい文字が書かれた紙のようです。
音夢ちゃんはしばらく何も言わないまま、じいっとそのいっぱいの文字を見つめ続けています。
「なんなんだろう、これ…」
「機能の…追加の、説明書、かな」
後ろからRUNAもいっぱいの文字をのぞきこむと、題名のところに『吸血機能』と書いてあるみたいです。
昨日、ご主人様が言っていた。アイリスちゃんが、メンテナンスのためにしばらくの間インストール
している機能だって。

じ〜〜〜〜〜〜…

音夢ちゃんが熱心そうに、説明書を読んでいます。2枚め、3枚め、4枚め…紙をめくるごとに
ちょっとずつめくるのが早くなっているみたい。

「…音夢ちゃん?」
「RUNAさん…にぃにぃとアイリスさん、早く探さないといけないみたい」



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜






そう、あの時もこんな感じの満月の夜だった。
月傘を差しながらカードをめくっていると、マスターがやってきたのだ。
そこで交わしたのは他愛のない会話。そしてたったひとつの占い。


「やっぱり傘を持ってきたほうがよかった…」


近くに木が一本立っているものの、月光を遮るのには不十分だった。
月の光は―ことにそれが完全な円を描くとき―わたしに不思議な感覚をもたらす。それは
占いの精度だったり、未来視のより鮮やかな幻視だったりした。

そして今回は…

時を刻むごとに身体が昂揚していくのがわかる。
だめ。今、月の光を浴びては。余計な感覚が研ぎ澄まされてしまう。
しかし、わかってはいても、月の光を浴びるごとに感じる、不思議な開放感からは逃れられない。
そしてわずかな理性をはたらかせて、木陰に隠れるように背をもたれる。
―月の光からは逃げられないというのに。






『ねえ、あなた…本当はこうなることを、望んでいたのでしょう』

どうしてそんなことがいえるの?

『だって、ここはマスターがきっと一番に探しにくる場所よ?』

それは…

『自分のエネルギー切れを望むのなら、できるだけ動き回るか、遠くまで行こうとするわよね?』

…そこまでしたら、マスターにも、皆にも余計な心配をさせてしまうもの。

マスターは目を覚ましてないわ。だから、この場所で大丈夫。

明日までには私のエネルギーも切れて強制スリープ。眠っているうちに皆が探しにきてくれるし、
昨日もきっとアンインストールされる。これですべておしまい。

『あるいは、社に行けばいくらでも対応策は眠っていそうなもの。あなたはそれを避けたもの』

わたし個人のメンテナンスのために…時間外に余計に社を訪れるわけにはいかないわ。

『そうやって言い訳を取り繕って、マスターの血を…いえ、マスターを狙っているのね』

これは機能の不具合が生んだ、イレギュラーなプログラムよ!

『マスターの血は、おいしかった?』

そんなの、わかるわけないじゃない。あのね、あれはマスターの解毒が最優先だったがゆえの
行動。血の味を判別するなんて、そんな暇はなかったわ。
…だいいちマスターの血に味を感じようとすること自体、不謹慎よ!

『言い方が悪かったわね。わたしが言いたいのは…今のところ一番マスターに近いところにいる、
ということよ。当然よね?マスターの体の一部を、その身に取り込んだも同じことだもの』

…血をわずかに啜ったくらいで、そんな考え方…

『あなたはその血を吐き捨てなかった。それはあなたの機関の中を、今も巡っている』

…永久には巡らない。そのうち…気化して…なくなる。

『あの直後のあなたの仕草、見物だったわね。まるでいけないイタズラがばれてしまったような…』

それ以上はやめて!

『どうして素直にならないの?それともマスターのこと嫌い?』

嫌い…ではないわ。

『そう。なら、あなたの本心、試させてもらうわ。…その影は、もうすぐやってくる。
今のあなたがどんな行動をとるのか…楽しみね』





目がまわるような自分自身の影との対話。その声がようやく途切れたと思った刹那、


「アイリス、いた!」


いちばん聞きたくて、そして聞いてはいけない声を、わたしは耳にした。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「急にいなくなって、どうした?」
心配そうにわたしに近づくマスター。その表情、顔色そして息づかい。
すべてが夢と同じ。

あの夢を否定するためには…声をださなければいい。
そんな単純なことを考えながら、わたしは震える歯をかみしめた。

「見たよ。例の追加マニュアル。やっぱり不具合起こるみたいだな。早く機能を外してもらわないと」
…マニュアルを、起こる不具合を、見た?
顔が、身体中が熱くなる。
ついうっかり、自分に課した戒めをあっさり破ってしまう。
「み、見たのですか?あの、すべてを…」
「ああ、3つくらい項目があったよな。エネルギーの効率が悪くなるなんて書いてあったから、
あわてて飛び出してきたんだよ」

3つ?6つではなくて…?
くらくらする視界の中でまばたきをしながら思いなおす。
「3つ…ですね、そうです、ね?」
もはやちょっとした言葉を口にするのもままならない。片言のように、マスターに問い返してみると、
「ああ、そうだ、3つだった。後ろの方にもいろいろ書いてあったみたいだけど、
まだ途中までしか読んでなかったからな…」

…ああ、よかった。

マスターは不具合の6つの項目のうち、前半部分しか目を通していないに違いない。
だからマスターの目には、わたしが単にエネルギーを失いかけて、挙動をおかしくしているようにしか
見えていないのだろう。
決して、マスターへの…好意の片鱗や血の渇望をにおわせるようなものは、悟られていないはず。

(そのあたりの異常を隠し通すことはできるかもしれない)

「これ、落し物だよ」
そう言ってマスターが取り出したのは1枚のタロット。知らない間に取り落としていたのかしら?
「ありがとうございます…」

マスターからタロットを受け取る時、指先同士がこつんと軽く触れた。
今の自分には…それだけでも…



もう、立っていられないかもしれない。


マスターの手元をよく見ると、月傘を持ってきてくれている。
これを差せば…月の光を遮れば、過剰に研ぎ澄まされてしまった各種の感覚を、
緩めることができる…けれど…



(名残…惜しい)
月傘を差して、少しでも理性を守るという選択肢を、除外してしまった。





マスター…少しくらいなら…寄り添って、よろしいでしょうか??



そう思ったと同時に、身体中から余計な力が抜ける。
もたれるその先にあるものは?もちろん、マスターの姿。
体裁とか知られてはならないものを抱えなければならない重みとか、そういうものを封じている
鎖がひとつひとつ砕けていくのを感じた。


「おい、どうした!?」
「熱いんです…」
この際、細かな言葉はもう必要ないだろう。

「熱い…?おい、故障かなんか…急いで戻らなきゃ…」
「いえ…マスター…しばらく、このまま…」
マスターの袖を掴んで引き寄せる。挙動よりも、その言葉にびっくりしたらしく、マスターは
唇と歯を少し震わせたように見えたl。


「でも…」
「大丈夫…ですから…。お願いです。時間を…ください」

口に出しながら思った。自分は何のための時間を求めているのだろうか?
正しい判断を下す理性が勝つための時間?
マスターからどうやって血を頂くか、思案するための時間?
あるいはこうしてマスターに、単純に触れ合っている時間?

それとも…ただ単に迷っているだけ???



「マスター…」
口に出して呼んだ相手の姿が、身体がすぐそばにある。
ああ、こんなにも近いのね。
月の光の助けを借りなくても、マスターの顔がはっきり見える。


「なんだ、冷やしたほうがいいか?それとも歩くのもつらいか?なら俺の背に…」
しかし今の態勢はむしろ正面に向き合っている。マスターも名残惜しそうに右手をわたしの
背中に回しかけているような姿勢だ。
きっと、マスターも私を求めようとしている…?…そう考えると、いつもなら頭を振ってその思考を
振り払おうとするのに、今となっては開放感を伴う昂りをもたらす。

たとえわたしの妄想だったとしてもいい。そう考えることが、たまらなく快い。



(くすっ…いいのですよ。そのままもっと固く抱き寄せてくれても)



そのかわり…ほんの少しだけ、その身体に再びちいさな傷をつけてしまうかもしれませんよ?



もはや自分の意志ではこれからの自分の行動は止められそうにない。
ならば、せめて品位を失わないように、マスターの傷を最小限にとどめるように…
それだけは心がけないといけない。


…どこから頂けば、いいのかしら?


昼間に歯を立てた、あの傷口?だめ。治ろうとしている傷口を開こうとするのは、痛みをともなって
しまうわ。ならば反対側の腕…それもだめ。両腕に傷を作っては両方が目立ってしまいそう。
吸血鬼らしく、首筋は?それも…だめよ。やりかたを間違っては、ケガどころの騒ぎではないもの。


本来ならば、歯を立てて血を吸うこと自体、普通の行動ではないのに、それを前提とした
思考…我ながらおかしいものだと思う。当然、ふつうならどの場所だってダメに決まっている。





(唇…)





一瞬浮かんだその選択肢は…危険で・・・・・・・・・魅力的だった。
危険?いや、唇を切ることくらい誰だってある。ほかの箇所に歯を立てるよりよほど自然だ。
マスターがたまたま唇を切ったのを見たことがあるけれど、それほど多くの血は流れて
いなかった。機能のコントロールに誤差が生じても、多く吸いすぎることはないはず。


月の光をいっぱい吸い込んだわたしが導き出した答え。それは非常に輝いていて
救いのあるものに見えた。

(でも…)

最後に残ったひとかけらの理性。
いくら機能によってプログラムの不具合を引き起こされているとはいえ、これだけは譲れない。


―ちゃんと、マスターの『許し』を得てからでないと―


すっと顔を挙げ、マスターの瞳をまっすぐ見つめる。
怪訝そうな様子だけれど、わたしを心配してくれている、ちょっと不器用で、すごく優しい瞳。
きっと、わたしの願いも受け入れてくれるわ…


声を、出した。
「…の・・・・・・・・を、わ…て・・・・・・・・・い」
変にかすれてうまくいかない。でもこれも夢で見たとおり。
台本にせかされて声を出しているわけではない。わたしが口をついて出る言葉、仕草、かすれ方。
すべてが、たまたま夢と同じになっている。それだけのことだった。


「ん?悪い、もうちょっとはっきり」
マスターが丁寧に聞き返してくれる。聞こえなかったふりをして、わたしを強引に連れ帰ること
だってできたはずなのに。

機会をくれた。
わたしに、望みを口にする機会をくれた。
ふつうの状態ではないわたしに。




たまらなく、嬉しかった。



マスター、痛くないように、派手な痕が残らないように、すぐ済ませますから。お許しください。




発声の音源を軽く震わせる。大丈夫、もうかすれることはない。
わたしの勇気を聞いてください、マスター。
イレギュラーな機能の不具合に頼った、邪な勇気ですけれど…



わたしは、マスターの目を、そして少し乾いているけれど傷ひとつないそのきれいな
唇を見つめながら願いを口にしようとした。


「マスターの血を、分け…」


瞬間、月の光が遮られたような気がした。
意識がリカバリーされていく。聴覚が正常に戻り、風の音、そしてそれを生み出す
影の存在を認識することができた。


「音夢ちゃん、ご主人様とアイリスさん、いたよ!」
「あの木の下だね…RUNAちゃん、しっかりつかまっていて。」
「うん」
「うまく着地できるか、ちょっとわからないから…」


「ありゃ、RUNAと音夢じゃないか?」
マスターも気づいたようで、月光を背にこちらへやって来る2人に目をこらしていた。
RUNAさんは光る翼を輝かせている。飛行機能はないから、明かりとして利用しているのだろう。
空飛ぶ本、ずいぶんスピードを出しているようだけど、大丈夫かしら?





(ちょっと、何に気を取られているの?早く、マスターから血を…唇を奪ってしまいなさい)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(まだ間に合うわ。)

そうね、間に合うかもしれないわね。でも、もういいの。

(もう、ここまできておいて何故…)

ありがとう。もうひとりのわたし。…わたしの内なる深い深いところにある、わたし自身。

(わけを聞かせてくれないかしらね?)

たとえ、わたしがマスターに試みようとしたこと…それが深層にひそむマスターへの好意の
かけらで、それが嘘偽りないものだったとしても…こういう形で表に出すのは、わたしの
本意じゃないから。

(!…この機能に頼りでもしない限り、あなたは)

いいのよ。マスターへの想いが存在するとして…やっぱりそういうものは、わたしが正常に起動して
いるときに、はっきりと自分の意志で伝えるべきだろうから。

(せっかく手伝ってあげたのに。この機を逃したら、あと何年かかるのかしらね?本音を伝えるのに)

ふふ、そうね、何年かかるのかしらね?自分でも見当がつかないわ。

でもね、これだけは言える。あなたの『いたずら』は決して無駄じゃなかった。

かけらのように小さなものではあるけれど、わたしにも想いの片鱗が確かなものとして、存在するのだと
わかったから。

(かけらですって?かけらどころか…!)




―ドーーーン!―


「いたたたたた…おい、音夢。もうちょっと上手く止まれなかったのか?なんか最近こういうの多いな…」
「空飛ぶ本に2人乗ったのはじめてだったから、うまく止まれなかったみたい。」
「す、すみません、ご主人様…」

プログラム内での内的葛藤を処理しているうちに、音夢さんとRUNAさんが高速でこちらに
突っ込んできたらしい。そしてそのまま、わたしもマスターも、吹っ飛びこそしなかったものの
当然のごとく倒されてしまっていた。

(今の耐衝撃で…エネルギー切れ、かしら…)

月の光は、感性・感覚の高揚化をもたらすことはあっても、動力としてのエネルギーを充填してくれる
わけではない。もちろん、マスターの血によってエネルギーの補充はできなかったわけだから…

「アイリスさん、眠そう」
「…エネルギー切れみたい…ね…」
音夢さん…きっとあの追加マニュアルに目を通している。だからこうして探しに来たのね。
機能にとらわれてマスターにはしたないことを試みたことまで…悟られてるかしら?
わたしを…軽蔑するかしら…?

「…背負うぞ、アイリス」
「お手数、おかけします」
マスターの好意を素直に受け取る。いつものように意地を張るには、眠すぎたというのもあるかも
しれないけれど…
(血を頂いてしまうよりは…罰は軽くて済む…わよね?)

エネルギー切れでスリープしてしまうと、18時間は目が覚めない。今までは滅多になかったことだけど。

「やっぱり軽いなあ、アイリス。月並みな言葉だけど、羽根みたいだというか…
「いちおう、軽量化されてますから…」
マスターに背負われてるこの目線からなら、その首筋がどうしても目に入ってくる。
まだ少し不具合の副作用が残っているのか、びくっとしてしまう。
「寝てていいぞ」
「そうですね、その方が、きっと…余計なことは………」
まず、視界が眠り、続いてコミュニケーションの機能がシャットダウンしていった。


「に、してもなあ。メンテナンスとはいえ、いわくつきの機能インストールしてくれたもんだよなあ。社も」
「にぃにぃ、アイリスさんは…」
「ああ、なんか変な副作用でエネルギー消費がえらいことになってたらしいんだ。」
「にぃにぃ、汗かいてる?」
「あ?…そ、そうだな、アイリス探すのに、ちょっと走ったからかな?」
…私がもたれた状態で、ぴったりくっついていたから…とは言わなかった。
ふふ、これでごまかしたつもりかしら?音夢さんなら、見破ってしまうのかもしれませんよ?
「帰ったら、もう一度おやすみなさい、なの」
でも音夢さんはそれ以上深く訊いてくることはなかった。
「音夢もRUNAもありがとうな。探しにきてくれたんだろ?」
「うん。音夢ちゃんが、早く探さないといけないって言ったから…翼で空から照らして…」
RUNAさんは…この様子だと、きっと機能の副作用についてはそこまで深く立ち入っていないようだ。

「明日、もう一度社に連絡しないと。しかしアイリス…エネルギー切れ起こしそうだったのに、
なんで外に出歩いたんだ?あ、もう寝てるか…」
「占い。」
「え?」
「アイリスさんだから、月の力で占いをするの」
「そ、そうか」
無難な音夢さんの答えにほっとする。
わたしが外出した詳しい理由を察しているのかいないのか、そこまでは読み取れなかったけれど、
今はこういうシンプルな答えでフォローしてくれるのがありがたい。

「にぃにぃ…」
「ん、今度はなんだ?」
「アイリスさんを、ゆるしてあげてね。」
「許すもなにも…別に悪いことなんて何もしてないし、無事でよかったよ」

これが、強制スリープに入る前に聞いた最後の会話だった。





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




アイリスさんのメンテナンス結果は、異常なし。
同時にあの『吸血機能』も、すぐに外された。


でも、わたしはまだちょっとだけ興味がある…


いけないことかな?



「あ、あの〜、音夢さん。本気ですか」
「うん。」
「うん…って…あのあと、『あぶない機能インストールさせないでくれ』ってクギさされたんですよ〜」
「でも、興味があるの」

ここはメンテナンスする場所。
メンテナンスの番、今度は音夢にまわってきた。
だから、今度は音夢に新しい仮の機能がインストールされる。

メンテナンスの女医さんロボットの子、すごく戸惑ってるけど…
でも、それでも気になるから。




アイリスさんに訊けばわかるかもしれない。
でも訊いちゃいけない。きっと。
空から小さく見えた、にぃにぃとアイリスさんのやりとりは、音夢がきいちゃいけない
ひみつのやりとり。





だから、自分でたしかめてみたい。






いけないこと、かもしれないけれど。








(にぃにぃの……血……甘くておいしいのかな?)










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